私のいる風景
祝福 神様に代わり 歌う喜び
11月28日の夕方。北区王子の「北とぴあ」さくらホールで、本番を3日後に控えたハイドンのペラ「月の世界」のリハーサルが進んでいた。
第1幕、恋人との結婚を許されない頑固な父親に反抗する若い娘フラミニアは、恋の素晴らしさを軽やかに歌い上げる。舞台の前面でスポットを浴びる姿は可憐な花を思わせる。
「私は花にたとえればバラやハイビスカスではなく桜。小さくて淡い色の花が持つデリカシーが好き。」
このアリアはコロラトゥーラ(装飾的な速いパッセージ)が入った難しい曲。だが華やかな技巧を見せびらかすこと無く、古典の様式をたくみに表現する。端正な歌声はコケティッシュでありながら、透明な気品にあふれていた。
幕間(まくあい)の休憩時間に楽屋を訪ねた。本番同様に次の出番に備えて衣装を着替え、髪型をセットする。「今まで練習してきたことをやるだけでいいんだと自分に言い聞かせます。すると舞台に出てから自然と役に集中でき、だいたいうまくいくんです。」鏡の中の自分を見つめながら話すそのたたずまいは、自然で落ち着いている。自分にあった役を演じることからくる余裕だけではない。「音楽家は神様から祝福された存在。そう思うと気持ちが楽になります。」
ソプラノといえば「蝶々夫人」などドランマーティコ(劇的な声)に注目が集まることが多い。しかし、自分の声はオーケストラの上でふわっと漂うような軽い役に向いていると話す。インチキ天文学者が創り出した「月の王国」で繰り広げられる18世紀の軽妙なファンタジーにぴったりだ。
国際コンクールでのデビューは8年前。才能を3大テノールの一人プラシド・ドミンゴに認められ、すぐにアメリカ・ワシントンのナショナル・オペラでモーツァルト「後宮からの逃走」への出演が決まった。
華々しく登場した新人。しかし背伸びをしていろんな役にチャレンジすることには慎重だった。「当時、ドミンゴさんに『あなたの美しいピアノ(弱音)を大切にしなさい』といわれたんです」。無理をして大きな声を出しても大柄な歌手にはかなわないし、のどに負担もかかる。「100回歌っても大丈夫な役をじっくり考えて選ぼうと決めました」
近年ことさらに自分を聴いてほしいとは思わなくなった。きっかけは2001年9月11日の米同時テロの3日後、ナショナル・オペラでオッフェンバックの「ホフマン物語」に出演したこと。「街全体が恐怖と不安で騒然としていたのに劇場は満員。お客さんは大喜びでした。こんな時でも音楽は人に喜びを与えられるんだと感動しました」。森麻季という一個人より、もっと大きなことを伝えなければいけない__。そう思うようになった。
留学中、壁にぶつかり悩んだことをきっかけにカトリックに入信し、20代後半で洗礼を受けた。洗礼名はベネデッタ。「音楽は神様からのメッセージ。神様に変わって、その言葉を喜びとともに人に伝える仕事に携われたことに感謝しています」
文・松本良一